溝手は昭和46年3月、エリートコースを歩んでいた新日鉄を退職し、妻の美重子の父である木曾清氏が経営する幸陽船渠に副社長で迎えられた。

溝手の社長時代。職業柄、英語は堪能。

木曾の下で全く未経験の造船の仕事に直面する。かたわら三原商議所副会頭としての財界活動にも多忙を極めた。

54年木曾の急死により社長に就任。従業員3000人のトップに立った。

折しも造船不況。会社の危機に立ち向かわざるを得なかった。

合理化などで負債を大幅に減らしたものの韓国など後発の台頭で船価は下がり円の下落も重なり不況の波をもろに受け苦境に立たされた。




やむなく61年6月、友好関係にあった今治造船と経営権譲渡の締結をした。

経営権譲渡。
つまり、自分のクビを差し出す代わりに、下請け業者の雇用、従業員の生活は継続してもらうという契約だ。

三原で育ち、三原に育ててもらった溝手にとっていかなることがあろうとも地元に迷惑をかけることは絶対許されないことであった。

溝手は
「だから、経営権譲渡という方法を選択した」
と当時の苦しかった心のうちを明かした。


しかしこの選択は、後に溝手への人柄、信頼を不動のものにした。

そして市長、参議院議員へのステップへとつながっていくことになる。

人間万事塞翁が馬。
まさに溝手顕正の座右の銘を地でいくものだった。








会社をクビになったこの時をもって溝手は裸一貫からの再スタートとなった。
生活のため、溝手は幸陽船渠をともに去った数人と小さなコンピューターソフト会社を設立した。

そのころ居酒屋で杯を傾けながら仲間と談笑することが多かった。
その中で市民の多くが停滞した市政に閉口しているのを強く感じとっていった。
そこで溝手は「市長になって三原を変えよう」と市長選出馬を決心した。




市長選へ!背水の陣で戦った!

やがて溝手の市長選への噂が市民の間に広がり始めた。

「なにを考えているのだろう」「大手企業や現職市長を敵に回して勝てるはずがない」無謀とも思える溝手出馬の噂に多くの市民は驚きを隠さなかった。
溝手にとって味方する材料は何一つなかった。

62年11月市長選を控え溝手が同年4月の連休前、親しい友人に市長選に立候補の気持ちを打ち明けた。

友人は「とんでもない事だ。勝てるのか?」と問い返した。
溝手は「今選挙したら現職市長は2万〜2万千票。俺はゼロ票だ。これから運動して勝負する。」と真剣な眼で語ったという。

友人は語る。
「その時の表情は、子供の頃、すっくと立ち上がり『俺は勝つぞ!』と目を輝かせて、子供相撲の土俵に上がった時のケンちゃんと同じでした。」

三原市議会選挙が終わった5月連休明け。
溝手は、各方面を歩き自分の気持ちを打ち明け始めた。

つづく

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