

みぞて顕正の誕生! |
溝手が生まれ幼児期を過ごした広島市南区皆実町の生家は、現在の県立産業会館辺りにあった。いまは国道2号線になっている。
その後、安芸郡矢野へ転居し、原爆の難は逃れた。
食糧難の戦後は、父方の里、加茂郡原村(現在の東広島市八本松町原)で過ごした。
小学校へ進学する時、当時の日本通運に勤めていた父親の転勤に伴い三原に居住。
三原小―広大附属三原小中学校に学んだ。
子供の頃、近くに住み共に遊び「ケンちゃん」「マサルちゃん」と呼び合う仲だった保道勝さん=三原市城町=は
「泥んこになり路地裏を走り回る毎日でした」という。
|
|
 |
| クラス写真(前列の左から4番目) |
小学校時代 |

祭りが大好き!
陽気なみぞて少年
|
あるとき三原の三大祭のひとつ神明祭で子供の飛び入り相撲大会があった。
土俵周りで見ていた溝手は、いても立ってもおれず腕まくりして「オレは勝つぞ」と土俵にあがった。
あれよあれよという間に並み居る相手を次々なぎ倒した。
優勝戦では豪快な上手投げで上級生を投げ飛ばし、子ども横綱になった。
手にした賞品は醤油一升ビン。
子ども横綱のケンちゃんをはじめマサルちゃんら、みんな大喜びで持ち帰り分け合った思い出があると保道さんはいう。
当時から腕っ節の強い少年だったそうだ。
また友人の木原啓文さん=三原市本町=は
「溝手君は、向こう気の強い頑張り屋でした。」
と少年期の溝手を評する。


広大附属高校時代の学芸会で
中央の主役がみぞて |
スポーツ好きの溝手は、中学に入ると勉強より野球に熱を上げた。
投手、外野手をこなした。腕っ節が強く3番打者。
対戦相手の中学生だった岡林嘉武さん=三原市城町=は
「中学生離れしたパワーヒッターでした。校舎へダイレクトで打ち込んでいました」という。
岡林さんは
「彼が打席に立つと外野手はバックして守った」と往時を語る。
広大附属広島高校に入学してからはサッカー部に入る。
ちょうど、同校のサッカーは全盛期を迎えることとなった。
後に日本サッカー界を背負って立つ小城得達、桑原楽之選手らは同級生で無論同じサッカー部仲間。彼らと共に昭和35年全国高校選手権大会で準優勝した。

溝手は青少年時代に相撲、野球、サッカー、大学ではアメリカンフットボールとスポーツ万能で体を鍛え上げてきた。
それが現在の不死身の溝手をつくり上げたのだろうと無二の親友の中山雅夫さん=三原市宮浦町=は語る。
やっと溝手が勉強に目覚めたのは3年生秋になってからだったようだ。
当時を振り返り溝手は
「勉強は遅きに失し大学入学のため1年浪人した。しかしスポーツを通じ勉強以上のものを体得できた」と回想する。
『大学時代からサラリーマン時代』につづく |
|